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原告団のプロファイル

フィリピンの邦字新聞であるマニラ新聞に「国籍喪失」という連載記事が掲載されました。原告一人一人の思い、その苦しみ痛みを掲載順に載せます。

石山ヒロコさん(19)
ヒロコさんは原告団の最年長です。我々が提訴を急いだのも、国籍法による国籍回復の可能年齢である20歳をヒロコさんが越えないようにという思いからです。弁護団の近藤主任弁護士は、提訴に当たっては、20歳を越えても問題ないとのことでしたが、我々親の気持ちとしては、もし年齢を理由に提訴を却下されてはという恐れがありました。国籍法12条の残虐性は、親の過失ともいえない過失に対して子供の国籍を本人の意思にかかわらず剥奪し、その最終宣告を20歳という年齢においていることです。親は、子供を守ろうとして必死です。20歳が近づくにつれ親の心労はその頂点に達します。国籍法12条の被害者の親は、極度のストレスからほとんどが病気もちで、ことに心筋症、高血圧症等が持病となっています。提訴したことで石山さんもヒロコさんも素敵な笑顔を見せています。
http://web.me.com/yoshisake/kokusekihou_kiji/%E9%80%A3%E8%BC%89%EF%BC%91.html

小林ダイチ君(4)
ダイチ君のおじいさんの誠さんは6人の子供のうち4人の日本国籍を12条で失いました。誠さんはフィリピン歯科医師会の重鎮で、フィリピンで歯科医師となるためにフィリピン国籍をとることを決め、日本国籍を失う前に4人の子供たちを出身地の北海道に返し、国籍法17条による国籍回復を果たしました。子供だけでは生活できないため、フィリピン人のメイドを3カ月おきに入れ替えて日本に派遣し、毎月40万円以上の経費を負担したとのことです。国籍法17条による国籍回復がどれだけの負担を親にかけるかという実例です。
http://web.me.com/yoshisake/kokusekihou_kiji/%E9%80%A3%E8%BC%89%EF%BC%92.html

丸山ダイチ君(12)
ダイチは私に一度もなんで僕は兄弟と違う国籍なのかと聞くことはありませんでした。私を100%信頼していて、いつかきっと自分も兄弟と同じパスポートがもらえるように私がしてくれると思っているようです。1997年10月末、4人の子供の認知届を提出するためにフィリピン大使館へ赴き、その際、窓口の担当者から、近々日本に行くことはないかと聞かれ、たまたまアジア開発銀行のセミナーの講師として出張する機会が12月にあると述べたところ、担当者は認知届を日本に提出するようにと指示し、私が、11月に出産予定の子供の届けについて聞いたところ、窓口は、認知届と記入要領は同じですからといって出生届の用紙をくれ、同様に日本で提出してくれと指示されました。ところが12月予定の出張が、2月に延び、日本の役所に提出した時には3ヶ月を12日間過ぎていました。
http://web.me.com/yoshisake/kokusekihou_kiji/%E9%80%A3%E8%BC%89%EF%BC%93.html

山口ユキさん(16)
ユキさんのケースは、丸山ダイチ君と逆のケースで、3ヶ月以内に日本の役所に届けたのに、役所の窓口からフィリピン大使館に届けろと指示され、結果3ヶ月を過ぎてしまったということです。私が最初にユキさんに会ったときには、微笑みもなく寂しげでしたが、今は素敵な笑顔です。
http://web.me.com/yoshisake/kokusekihou_kiji/%E9%80%A3%E8%BC%89%EF%BC%94.html
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